1957-02-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号
かくのごとき大量の検挙が非常にあわただしく行われたのでありまして、この際、私といたしましては、何と申しますか、いわゆる民主グループ、民主運動というようなものを向うで利用いたしまして盛んに密告、謹告というようなことが行われて、そのために犠牲になった者も多数あるように考えております。
かくのごとき大量の検挙が非常にあわただしく行われたのでありまして、この際、私といたしましては、何と申しますか、いわゆる民主グループ、民主運動というようなものを向うで利用いたしまして盛んに密告、謹告というようなことが行われて、そのために犠牲になった者も多数あるように考えております。
黒木剛一同元少将を初め、遠藤三郎、菊池永雄、小林与喜三の三元陸軍大佐、ハバロフスク事件の黒幕と伝えられた瀬島龍三元関東軍参謀中佐等の佐官級軍人や、旧関東軍情報部、関東軍特殊情報部、機動第一旅団等の将校も四十数名に及び、一方には、ハバロフスク日本人収容所の日本新聞の編集責任者で、抑留者間に、シベリア天皇で通った問題の浅原正基君や、志田行雄君など、いわゆる党史研究グループの左翼二十七名が同船し、これで民主グループ
その金田班というところからその声が起きたのでありますが、全班が直ちにこれに相応じまして、われわれは出ない、われわれの要求を貫徹するまでは作業に出ないということになりまして、それではそういうふうに六中隊はきめようと言っておりますと、ことを伝え聞いた各中隊の班が、ほかに五個中隊ありますが、だんだんに、われわれも出ないといって班長が申し込んで参りまして、期せずして民主グループ——さっき党史研と言いましたが
というのは、先ほど木村君のおっしゃった十三名かの、いわゆる民主グループという、それこそほんのごく一部の人であるということを、ここにちゃんと言っているのであります。また言葉が続いて、「また訪ソ議員団の方々に、われわれの知っておるのでも、数人の人から、これを日本国民に伝えていただきたいという文書のあったことを私は記憶しております。
ところがラーゲルのうちに十数名のいわゆる民主党といいますか、民主グループといいますか、われわれはデモ、デモと申しておりますが、いわゆる浅原一党、浅原を筆頭とする、ところのグループがあります。彼らは終戦当時四五年以降ですから、四七年ですか、においては非常にいわゆる思想教育に彼らは力を尽したと言えば、きれいに聞えますけれども、そのためにわれわれ悩まされたものである。
ソヴイエトに礼を言わなければならぬ、待遇がよかつたと言つておるが、あなたは民主グループの指導者であつて相当な地位にあつたから、あなたは待遇がよかつたのでしよう。しかしある反面には一收容所では二千名の收容者がいたそうですが、その中の四分の一の二百五十名が一箇年になくなつた。その死んだ者を裸にし、ふんどし一つにして、あの零下四十度というシベリアの野に山積みにしていた。残虐非道だと言つておる人がある。
さらに今度は昨年帰還者から証言を求めたときに、民主グループにいた高山君かと思いますが、あるいは名前は違つておるかもしれません。その証言によりますると、向うでは死んだ場合には五通の書類を書く。その一つは万国赤十字、その一つは司令部、もう一つは日本政府、あとは現地と、それからソ連に残して来るというようなことを言われた。
「菅証人によりますと、帰国の時期が適当でないと認める者の内申の権限を、民主グループ時代は専門部員、反ファシスト委員会時代は中央委員会に、ソ連当局から与えられて居たのでありあす。
(拍手) なおカラガンダ地区の徳田要請は、第二次日の丸梯団の人々によつて取上げられた問題でありますが、この日の丸梯団の責任者がたまたま久保田薫蔵君であつたため、一部においては、同団が右翼団体であり、軍国主義者の集団のごとくいわれたのでありますが、これは結成当時の各責任者を証人として喚問した結果、いわゆる民主グループに対抗するため、船中で日の丸を胸につけて一線を画したものであり、在ソ中いわゆる反動と
第二点といたしましては、今回の引揚を通じ、又過去の諸資料から、いわゆる反動分子の帰還遷延の問題について、その実権は、日本側民主グループ反フアシスト委員会が実権を握つておつたことが明らかにされたのでありますが、かかる行動は正に人間性に背反し、最も遺憾なる所行と言わざるを得ないのでありまして、この問題について国内的に如何なる処置を講ぜられる意図を持つておられるか、明らかにして頂きたいと思うのであります。
それを三百六十名の民主グループの委員が本部に襲撃をしたのであります。大隊長以下本部員に対し……。それで私は大隊長を部屋に入れて置いて、私達が彼らに妨戰をしたのであります。当然彼らから押かけて来たのであります。
という内容は、民主グループは大体本部の命令の補佐機関であつて、大隊の兵隊に対し命令する権利はない、命令権は飽くまで大隊本部にある。だから大隊本部の一員として自分は民主グループの委員の皆から指示を受ける必要なしと敢然と蹴りました。それに対して彼らは、民主暴動を以て三百六十名が私を本部に襲撃しました。そのとき私は後藤という軍医中尉と二人で三百六十名を相手に遂に闘争になりました。
○証人(秋葉重徳君) 民主グループは、一番最初は作業というものをお互いに向上させ、皆さんの暮しを良くする、こういう名目の下に作業の督励をしておりました。
そこで民主グループに入つておられる時分に、この民主グループの中の運動を進めて行く上においての、何かせわをやくような人があつたと思いますが、それはどういうぐあいにして選ばれたかを聞かせていただきたい。
○梨木委員 先ほどあなたは民主グループに最初入つておつたことはあると言つておりましたね。それはいつからいつまで入つておられて、その後どういうような形で民主グループからやめられたのですか。
○内藤(隆)委員 あなたは民主グループづらをしたやつを摘発した覚えもないのですね。
そのうちの一つは、民主グループとあなたが関係なかりた以前において、日本人でありながら一しかも同じ捕虜でありながら、その捕虜が日本人のいわゆる捕虜を帰すのをじやましておるような感じを受けられたことがありますか。またそれから後において、あなたが民主グループに連絡をとられるようになつてから、その考え方が間違いであつたというような気持をお起しになつたことがありますか。
○鍛冶委員長 この民主グループでそういう批判をやつておるところから見ますと、民主グループでは天皇制を護持するか、またはこれを支持せないか、いわゆる白であるか黒であるかという、二者一をいれない傾向のものであつたのですか。要するにあなたにそういう批判をしたわけですね。そうすると天皇制を護持するのか護持せないのか、どつちだ、こういう議論で問い詰めて来るものではないのですか。
しかもその男が、たとえば日本新聞から出て行つた後の檄文におきましても、すべて檄文には、地方反フアシスト委員会ビユーロー、あるいは地方代表者会議参加者一同、民主グループ一同という署名に加わつておる。これをもつてしても彼が責任がないとは言えない。しかも彼の言葉によれば、ここに書いてある、大衆にわかるようなこの言葉をごまかして、反動はただ戰犯だ、こう言つてここで証言されておる。
もう大体あなたの御答弁を聞きまして、これ以上お尋ねする必要はないのですが、そこで在ソ中の日本人捕虜に対する民主教育として、先ほどあなたは友の会が生まれた、そして民主グループというものができ、後に反フアシスト委員会ができたと言われた。先ほどのあなたの証言の中に、日本新聞が最初に友の会をつくらせたと言われますが、これは日本新聞としておやりになつたのでか。
さてその友の会、あるいは民主グループにおいて教育されたところの民主教育のテキストというものが、この前の証人の龜澤君によりますと、ほとんどマルクス、レーニンに関するもの及び、ソ連の革命当時のいろいろな教訓が教材として示されたということでありますが、それらを考えますと、先ほど私が申しました日本新聞及び日本新聞が指導されました友の会、民主グループ及び反フアシスト委員会の民主教育なるものは、大体共産主義教育
○安部委員 しかし共産主義を信じない者は、そういうようないわゆる民主グループの一員にならなければ、日本に帰つて来ることができなかつたのでしよう。
○鍛冶委員長 民主グループからですね。
○宇野証人 民主グループからです。
○鍛冶委員長 その民主グループのあるところでは、民主グループに入つた者はいわゆる民主主義者と言われ、入らぬ者はすべて反動と言われておつたと聞いておりますが、そういう事実がありますか。そうすると、あなたは反動として最初から最後まで取扱われておつたか、その点いかがです。
○鍛冶委員長 そうすると民主グループ中のアクチーヴというものは最も共産主義の遵奉者、積極行動者である、こう見てさしつかえないのですね。
またカラカンダ地方においても民主運動が活発になり、各収容所の民主グループができている、こういうふうになつておりました。そこで私がおりましたのは第十一分所であります。第十一分所においても、なぜほかの分所のように民主グループができないかというようなことを、ソ連の政治将校がきつく言いました。
反フアシスト委員会か、民主グループか。
○橋本証人 ベグワードにおりましたときには反動という極印を押されましたが、その後民主グループに入りましで、別に活溌な運動はやりませんでしたが、そのまま民主グループという名のもとに作業をやつておりました。
○鍛冶委員長 その後あなたはさとるところがあつて、今度は民主グループへ入つて反動でなくなつたのですか。つまりずつと反動で押し通して来たか、それとも民主グループへ入つてアクチーヴにでもなつたか。
いわゆる民主グループの一人であつたとおつしやつたのでありますが、それは入ソ後共産主義に共鳴するようになつたのですか。あるいは最初はそういうことに関係なかつたのですけれども、十五、六歳のときからマルクス主義に関して、いろいろな関係の本を読んだ。そういう点からその民主グループ一員になつた、それが動機であつたのですか。
民主グループ当時におきましては、民主グループの專門部員であります。
そうしてそれが翌年の四月に民主グループにかわつたのであります。どうしてかわりましたかというと、初め友の会というものができました当時におきましては、われわれ全体の意見をソ連側に対して要求するという、そうした一つの機関、それと同時にもう一つは、われわれ收容所において、明朗生活を営む上に、そういつた所内の美化、衛生とか懇親をはかるという意味におきましてできたものであります。
○佐々木(秀)委員 向うの民主グループがいろいろな組織をつくつて、そうして反動に対抗し、そのために反動分子とみなされる人が帰れる時期に、いろいろな反対運動が起きて帰れなかつたということですが、今までのあなたの証言から考えて、民主グループの人たちは日本のいわゆる共産党と言われる政党と相当な連繋があり、また何らかの関係を持つていられるとあなたは考えておられますか。
○鍛冶委員長 民主グループができた。そこであなたは民主グループの一員となつて、いわゆる反動分子というものとの闘いをやられたということですが、そういう事実がありますか。